1.錦町線とお茶の水橋
[ ]内の数字は地図上の□内の番号に対応しています
錦町線(にしきちょうせん)は、1904(明治37)年に東京電気鉄道が開業した外濠線がその前身です。このうち[01]御茶ノ水・[12]新常盤橋の区間がいつからか錦町線と呼称されるようになりました。地図の赤線部分が該当します(緑線はのちの水道橋線です)。その後、[01]御茶ノ水~[06]錦町河岸の区間は往復運転を行うようになりましたが、戦時中の1944(昭和19)年、不要不急路線として休止されました。
お茶の水橋は、今も東京メトロ丸ノ内線とJR中央線/総武線それぞれの御茶ノ水駅を隔てる神田川に架かる橋で、初代は1891(明治24)年に竣工。1905(明治38)年に外濠線(のちの錦町線)が延伸しこの上を渡るようになりました。現在のお茶の水橋は2代目で1931(昭和6)年の竣工。架け替え工事中は市電も橋を渡れず、[01]御茶ノ水電停も一時的に橋の南側[02]に移設されました。
当時のレール、敷石、枕木が眠っていたのは、この2代目のお茶の水橋になります。
【地 図】□内の数字は電停の場所を示しています。

【停留所(電停)の変遷】[ ]内の数字は地図上の数字と対応しています。

【年 表】[ ]内の数字は地図上の数字と対応しています。

2.お茶の水橋の工事
(1)工事の概要
現在の橋のコンクリート床板は2層に分かれ、鉄骨と同じ高さにある下層部分は鉄筋コンクリートですが、上層部分には鉄筋が入っていません。ここを鉄筋化して橋の耐震強度を上げること、および、現在歩行者で込み合い車椅子の通行が困難な東側の歩道を拡張することが主な目的です。
(2)工期
現在の終了予定は令和7年3月31日です。千代田区のご説明では、橋の下のJR線が終電後でかつ送電が止まっている時間、すなわち1か月のうちの約半分、しかも1晩あたり2時間程度しか工事ができないため、工事に時間がかかるようです。
(3)工区・工程
保存会では、レールの露出箇所、初期に出土したレールの位置、航空写真と横断歩道等の白線の位置などから、レールの埋没場所を以下の通り予測しています。実線はレールが残存、破線は既に撤去済と予測されている場所、赤い部分は工事前にアスファルトの割れ目からレールが露出していた場所です。
工事は全体を12の区域に分け、数字の順に進められる予定です。2019年10月、①の箇所を掘り起こす工程で一番西側の1本が出土。2020年1月23日現在、②のエリアの工事が進められています。このエリアからは、ほぼ当時の状態のままのレールや敷石が出土。まるでLRTの新設工事のような景色が話題となっています。
2020年3月下旬、いよいよ③のエリアにも碁盤の目のカッターが入りました・・・。

3.現場の状況
(1)工事前 2019年5月
工事前、御茶ノ水橋北詰の横断歩道周辺のアスファルトの割れ目から、レールと敷石が顔をのぞかせていました。(当時のレポートはこちら)
横断歩道と伸縮装置の間で顔をのぞかせていた旧都電レールと敷石(2019/5) 横断歩道と伸縮装置の間で顔をのぞかせていた
旧都電レールと敷石(2019/5)
(2)第①工区 2019年10月
レールはお茶の水橋の北端で大きく水道橋方面にカーブし、一番西側の1本が第①工区を通っていたため、ここでレールの一部が出土しました。保存会による調査では、このレールは1930年、英ボルコウ・ボーン(BOLCKOW VAUGHAN)社製(※異説あり、調査中です)。翌1931年の2代目お茶の水橋の架橋に合わせ輸入されたものと推測されます。ここでは同時に枕木も出土しました。写真を見る限り木製です。
千代田区はこのレールを十数cmに切断し、学術研究を前提に当保存会に下付。保存会はこれを自家用車で運搬し、京都および岡山の博物館・研究者に寄贈しました。
横断歩道脇をカーブしながら
横切る旧都電レール(2019/10)掘り出され道路脇に一時保管
される旧都電レール(2019/11)長池公園(八王子市)にある
都電レールとの比較(2019/12)工区①からは、レールと共に枕木も出土
(2019/11)保存会メンバーの自家用車で京都・岡山へ運搬(2019/12)
(3)第②工区 2020年1月
第②工区および③工区(と第⑥工区および第⑦工区)は、それぞれ北行き・南行きのレールが残存していると予測していたところでしたが、第②工区のアスファルトが剥がされ1月23日に判明した現状は・・・想像以上でした。その後、まるでLRTの新設工事現場と見間違わんばかりの光景は、鉄道ファン・廃線跡ファンだけでなく、一般の通行人にも話題になり、保存会とその活動も、さまざまなテレビ、新聞、ネットニュース、SNS、YouTubeなどで取り上げられるようになりました。
保存会メンバー撮影
(2020/1/23)
レールに沿って縦に大きな敷石が並べられ、その間に小さい敷石がレンガ状に並べられていますが、過去の資料や写真を見ても東京市電・都電ではこうした事例は見つけられませんでした。
一方で、欧米では以下のような事例があるようです(いずれも保存会メンバー・浅見哲哉さん撮影)。当時はかの国々から技術指導を受けるなどして、こうした様式が取り入れられたのかもしれません。
ポルトガルのトラムの敷石
(ポルト/2003年)ポルトガルのトラムの敷石
(ポルト/2003年)ポルトガルのトラムの敷石
(ポルト/2003年)ポルトガルのトラムの敷石
(リスボン/2005年)ポルトガルのトラムの敷石
(リスボン/2005年)ポルトガルのトラムの敷石
(リスボン/2005年)ポルトガルのトラムの敷石
(リスボン/2005年)ポルトガルのトラムの敷石
(リスボン/2005年)ポルトガルのトラムの敷石
(リスボン/2005年)イタリアの例
(ローマ・トラステヴェレ)アメリカの例
(サンフランシスコ・フィッシャーマンズワーフ)国内の例
(福井)オランダの例
(アムステルダム)オランダの例
(アムステルダム)
さて、第①工区で出土したレールはカーブの内側だけでしたが、この第②工区では外側のレールも出土しています。内側は英ボルコウ・ボーン社製(※異説あり/調査中)の溝付きレールでしたが、外側はなんと官営八幡製鉄所製の溝なしレール。英国産と国産が1対のレールを構成していたことも分かりました。しかも溝付レールもカーブの先では溝なしレールに接続されているようにも見えます。さらに米国Lorain社のレールも。また、新たな枕木も顔を出しましたが、こちらも前回と異なり金属製。この鉄製枕木は断面がコの字を伏せた形になっており、2対のボルト・ナットで1本のレールを挟む方式で固定されていました。
左から、「45」は単位当たりの質量で、45kg/mまたは45ポンド/ヤード(どっち?)。Sマークは官営八幡製鉄所の社章、製造年の右の縦線は本数により製造月(10本で10月)を表す。 Sマークは官営八幡製鉄所の社章。1930年は輸入品から国産レールへの移行時期と思われる
(4)第③工区 2020年3月
工事自体は順調で若干前倒しで進んでおり、2020年3月下旬、第③工区に碁盤の目のカッターが入りました。ただし、この工区では千代田区および当保存会が保存に向けて長めのレールを採取することを決めており、一部はアスファルトのみのカットとなっています。4月の中旬には第2工区と同様、まずアスファルトを剥がすとのことですので、まもなく再びノスタルジックな路面が姿を現すことでしょう。
そして4月8日。予定通り第③工区でレールが出土しました。
路面の一部には、のちの調査のためマーキングが施されました(4月15日)。
その後、最終的には5月8日までに第3工区のすべての敷石・レールが撤去されました。
(5)第④⑤工区 2020年8月~9月
コロナの第2波が続く中、第④および第⑤工区の工事が行われ、9月29日までに完了しました。やはりこれらの工区では特段の出土物はなかったようです。
(6)第⑥⑦工区 2020年10月
第⑥工区と第⑦工区はまとめて道路が閉鎖され、10月1日にカッターが入りました。
そして6日の深夜、一晩にしてアスファルトと敷石が撤去され、まず西側のレールが露出しました。